原作の姉弟を逆転させらしさを出した溝口の『山椒大夫』の緊張感

原作の姉弟を逆転させらしさを出した溝口の『山椒大夫』の緊張感

映画『山椒大夫』の概要

時は平安末期、農民の窮乏を救うために鎮守府から咎を受け流された平正氏の妻玉木とその子厨子王と安寿は友をひとり連れての旅の途中、物騒など言う土地で人さらいにあい、玉木は佐渡の売春宿へ、厨子王と安寿は丹後の山椒大夫の荘園に奴婢として売られてしまった。厨子王と安寿はひたすら10年間堪え続けていたが、新しくやってきた娘の口から、彼ら自身のことが歌われた歌を聴く…

森鴎外が古い説話を小説化した原作を、さらに再解釈し溝口が映画化した作品。脚本には依田義賢に加えて八尋不二が参加し、重厚な物語世界を描き出している。

1954年,日本,124分
監督:溝口健二
原作:森鴎外
脚本:八尋不二、依田義賢
撮影:宮川一夫
音楽:早坂文雄
出演:田中絹代、香川京子、花柳喜章、進藤英太郎、河野秋武、浪花千栄子、見明凡太朗、菅井一郎

女に助けられる男を描く溝口

原作では確か安寿が姉で厨子王が弟だったと思う。それがこの映画では厨子王が兄で安寿が妹となっているのだが、これはおそらく花柳喜章と香川京子というキャストの年齢の問題なのだろう。しかし、これは結果的にはただ姉弟が兄妹に変わっただけという以上の効果を生んでしまった。元の物語では姉が弟を救うために命を捨てるということになるのだが、この映画では兄が妹を見捨てたというように写ってしまうのだ。

これは非常に大きな違いだと思うが、ここには実は溝口らしさが現れているとも考えられる。それは、溝口の映画がずっと扱い続けるひとつのパターン、情けない男が女の助けで何とか立ち行くという構造がより強調されてくるのだ。これまでは基本的には年上の女に助けられる男という構図が多かったのだが、ここでは兄が妹に助けられるという構図になっている。厨子王は10年の間にまるで駄目な男になってしまい、妹にたきつけられてようやく行動を起こし、しかも妹の自分が犠牲になるという提案をいとも簡単に受け入れてしまう。この厨子王の情けなさ、それに比べて安寿の気高きこと、この対比がまさに溝口。この逆転はキャスティングに端を発したことだとおもうが、それが結果的に溝口らしさを強調する結果になったのだ。確かにちょっとやりすぎで説得力がないという感じもしなくはないが、安寿を演じる香川京子が静々と水の中に入って行くシーンは映画史に残る名シーンであると思う。

このシーンもそうだが、この作品の溝口はいわゆる溝口らしいとされる1シーン=1ショットにあまりこだわっていないように見える。この入水自殺のシーンでは、腰の辺りまで静々と歩んで行くシーンが1カットで続き、老婆の横顔のインサートショットがあって、池に波紋が広がるだけのカットがそれに続く。このような効果的なカット割がこの作品では随所に見える。それでももちろん1カットの長さは十分に長いのだが、「ここまでやるか」というこだわりのようなものが感じられるようなシーンはあまりない。

そのせいで、この映画は溝口にしては少し凡庸な印象がある。映像自体は非常に美しいのだが、溝口らしい緊張感には少々欠け、どこか安心して見れてしまうのだ。

緊張感ある映像と「女」

しかし、田中絹代の登場シーンはまた別だ。遊女として売られ、奴隷のような日々を過ごし、果ては逃亡しないように足の腱まで切られながらもずっと子供たちのことだけを考え続ける女、玉木。この玉木を演じる田中絹代をカメラが捉えるときだけは、カメラはじっくりとこの玉木の一挙手一投足に注目する。しかも、多くの場合それはフルショット(全身がフレームに収まるサイズ)といういかにも溝口らしいサイズの画面で取られている。この玉木が崖の上で安寿と厨子王の名前を呼ぶシーンの緊張感、これは溝口の映画でなくては味わえないものである。

こう考えてみると、この映画もやはり女性が主役だ。物語としては厨子王が中心になっているようだけれど、その物語を動かし、映画の中心になるのは安寿と玉木である。厨子王が担うのは、戦後民主主義的な思想という戦後溝口が失敗し続けてきたテーマであり、この平安時代を舞台した古い説話とはどうにもすりあわせようのないテーマだから、なおさらにそのようなことを感じる。

溝口はこの作品でさすがの映像的表現のすばらしさを観客に見せはしたが、テーマについては今ひとつ掴みきれていなかったのではないだろうか。平安という価値観の異なるかけ離れた時代、これをリアリズムで描くのはさすがの溝口でも難しかったというところだろうか。

『山椒大夫』が見られるVOD

2021年1月現在

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