『銀座化粧』で成瀬巳喜男が田中絹代に演じさせた「女」と「母」の葛藤

『銀座化粧』で成瀬巳喜男が田中絹代に演じさせた「女」と「母」の葛藤

日本映画を代表する監督のひとり成瀬巳喜男は一貫して「女」を描いてきました。数多くの作品で主演女優として起用した高峰秀子は成瀬の「女」を体現し、黄金時代を築きました。

そんな成瀬が田中絹代を主演に迎えた作品がこの『銀座化粧』です。別の女優を介して成瀬はどのような「女」を描いたのでしょうか。

この『銀座化粧』が見られるVOD、この作品を見た「次」に見るべき作品も紹介します。

映画『銀座化粧』の概要

1951年,日本,87分
監督:成瀬巳喜男
原作:井上友一郎
脚本:岸松雄
撮影:三村明
音楽:鈴木静一
出演:田中絹代、香川京子、花井蘭子、小杉義男、三島雅夫、東野英治郎

息子の春雄と長唄の先生の家の2階に間借りして暮らす雪子は“ベラミ”というバーのベテラン女給、昔世話になった藤川に金をせびられたら出してしまうという人のよさを持ち、女給仲間の京子にも親切だが、人がよすぎて貧乏暮らしが続いていた。そんな雪子に旧友の静江から妾の話が来るが…

まだ戦後の混乱期、女たちがいかに生きて行るのかをユーモア満天に描いた。東宝争議で一時東宝を離ていた成瀬が独立プロで撮り、新東宝で配給した作品。

描きこまれた戦争未亡人の現実

映画自体は他愛もない作品ともいえる。昔の男との間の子供を抱えた一人のバーの女給の生活を切り取った断片、ただそれだけのものかもしれない。しかし、そこにはこの時代の“女”というものが浮き彫りにされる。静江が石川に対して戦争未亡人と嘘をつくように、巷には戦争未亡人が溢れ、一人で子供を抱えて生きなければならない女たちが溢れていた。そんな女たちのひとりとして雪子は描かれ、気楽ではあるが楽ではない生活が描かれる。

だから、この主人公は戦争未亡人ではなく、以前からふしだらな生活を送ってきた女なのだ。戦争未亡人が貧しさのあまりバーの女給になり、身をひさぐこともいとわないという話では、まるでGHQの占領政策が失敗しているかのような印象を与えかねない。だから、いくらそれが現実であってもGHQはそれを描かせようとしない。そのような実態がそこに透けて見る。成瀬はそれに従いながら、戦争未亡人という言葉をさりげなく忍び込ませ、見る人に現実を思い出させようとしたのではないか。戦争未亡人たちは貧困のために女給や娼婦やオンリーとなり、主に米兵たちを相手にして何とか子供を育てていた、そのような描けない現実を観客の中に浮かび上がらせようとしたのではないか。

さすがに成瀬と思わせるのは、様々な規制にもかかわらず、これだけ面白い作品に仕上がっているということだ。この映画は、コメディであり、同時にラブ・ストーリーであり、また親子の感動物語でもある。

成瀬巳喜男が描く「女」と「母」の葛藤

雪子に想いを寄せる岡本の調子っぱずれな長唄のシークエンスなど今でも充分に笑えるおかしさがあるし、下の階に住む夫婦のやり取りなんかも面白い。そしておそらく30代半ば暗いと思われる雪子が抱く淡い恋心の描き方や、その石川を巡る女たちの心理の機微の描き方などはさすがに女性映画の巨匠成瀬だと思わせるうまさだ。そして、雪子と息子の春雄の関係は非常に繊細に描かれている。

雪子は春雄こそが生きがいだと考えているのだが、京子にポロリと「理想の人を見つけたら何もかも捨てて突き進まなきゃ」というようなことをもらす。もちろんそれは京子に対して行ったことなのだけれど、そこには自分の石川に対する気持ちが込められていることも否定できない。ここで成瀬が焦点を当てるのは、雪子の「母」と「女」という両面の存在である。雪子は「母」として春雄のために懸命に働いているわけだが、女としての面も多分に持っている。だからこそ藤村を追い払おうとしないのであり、下の夫婦がいうように女学校まで出ているにもかかわらずバーの女給などをやっているのだ。結局この母と女の葛藤は石川と京子が惹かれあうことで拍子抜けのように終わるのだけれど、京子が石川のところに泊まったとわかったときの雪子の表情と行動はまさに「女」のもの、京子に殴りかかりでもしそうな緊張感を持っている。

田中絹代が演じる「女」の見事なバランス

これを見ながら、田中絹代という女優はやはりすごいと思う。いつも映画の始まり辺りでは、なんだか棒読みっぽい台詞回しだなぁなどと思うのだが、映画が進むに連れて、そのキャラクターにぐんぐん引き込まれていき、スッとその世界に溶け込んで行ってしまうような感覚にさせられる。そして、最後には彼女の表情や仕草の一つ一つからメッセージを読み取ってしまうようになるのだ。また、それほど美人とは感じられないのに、映画が終盤に行くに連れ、どんどん魅力的な顔に見えてくるのだ。

この作品の「母」と「女」の葛藤というテーマを見事に描くことが出来たのも、それを演じたのが田中絹代だったからだと思う。高峰秀子がやったら「女」のほうが勝ちすぎたような気がするし、杉村春子がやったら「母」の方が勝ちすぎる。田中絹代は地味で控えめな風貌をしているのに、その内側に女を常に秘めているような気がする。だからこそ、母でありながら女というキャラクターを見事に演じることが出来たのであり、成瀬巳喜男はそれを見事に引き出したのだ。

監督・成瀬巳喜男と女優・田中絹代の沈黙の戦いが名作を生んだ

成瀬巳喜男という監督はその作品をボーっと見てしまうと特徴が見えてこない監督であると思う。小津や黒澤のような主張がないのだ。しかし、こと女性映画となると、その女性の存在の仕方によって成瀬らしさというモノが出てくる。女の心理の複雑さをリアルに描くと書くと、売り文句のようになってしまうが、成瀬の作品は登場人物たる女を通り越して、それを演じる女優の内側まで切り込んで行くように思える。彼の作品は重要な部分では必ずと言っていいほど女性のアップが使われる。その表情の微妙な変化によって複雑な心境を伝えるのだ。その成瀬の演出に耐えられるほどの女優はそう多くはない。この作品でもクロースアップになるのは田中絹代ばかりなのだ。

成瀬巳喜男の映画とは監督と主演女優の沈黙の戦いの中から生まれてきたものなのではないか。監督は女優の内面を引きずり出し、女優を登場人物に一体化させる。女優は心底からの演技が出来るようになり、内側からその感情を表現する。その感情は、表情のほんの少しの変化や台詞のわずかな言葉尻に表れ、監督はその一瞬を逃さず捉える。

そして、そのようにして捉えた田中絹代の表情の中に母と女の相克が浮かび上がるのだ。この作品が軽妙でありながらシリアスな面も持っているのは、そんな成瀬巳喜男の演出の妙である。年を経るに連れてコメディ色は薄れて行くが、成瀬作品の特徴とも言える自然さやリアリティはこの頃に完成されたのではないか。成瀬巳喜男と田中絹代というふたりの巨星の出会いは、注目されてはいないが、二人にとって非常に重要なものだったのではないかと私は思う。

翌年、成瀬はほぼ同じキャストで『おかあさん』という作品を撮った。そこでは田中絹代は「女」の面を完全に捨てて、「母」として現れる。「母」にも「女」の面があるということを指摘されることはあっても彼女は一貫して「母」であり続ける。その田中絹代の表情の奥に隠されているのは博愛ともいうべき懐の深い愛なのだ。それは家族にとっての母であることを越えて象徴的な「母」というものを表現しているようにも見える。しかし、最後の最後にその中の「女」が顔を覗かせ、娘の「お母さんは幸せなのでしょうか」という言葉によって「母」の自我というものが浮き彫りになる。

60年の作品『娘・妻・母』のタイトルからでもわかるように、成瀬は「女」が様々にその立場を変えながらも「女」であり続けることを描き続けた。その「女」が「女」であり続けるというテーマが本格的に考えられるようになったのはこの『銀座化粧』『おかあさん』辺りの時代だったのではないかと思う。

『銀座化粧』が見られるVOD

『銀座化粧』が見られるVODは次のとおりです(2020年10月現在)。

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銀座化粧定額見放題

『銀座化粧』の次に見るべき映画

この作品が含まれているまとめ

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