志村喬が目で語る『生きる』で黒澤明が引き出した役者たちの魅力

志村喬が目で語る『生きる』で黒澤明が引き出した役者たちの魅力

黒澤明が志村喬主演で撮ったヒューマンドラマの傑作。30年間何もしてこなかった公務員の男が自分の死期を悟り、生きることの意味を探っていく。

映画『生きる』の概要

とある市役所の市民課長を務める渡辺はただ何もしないことで、30年間勤めを果たしてきた。そんな彼が突然役所を休む。胃に違和感を感じたので検査をしに病院に行ったのだ。待合室で、ほかの患者としゃべった彼は自分が胃癌であると確信するに至る。自分の命がもうわずかしか残されていないことを知った彼は絶望のふちに立たされるが、ただ一人の息子に打ち明けることもできなかった…

黒澤明のヒューマンドラマの傑作のひとつ。志村喬をはじめとした役者の演技がものすごい。

1952年,日本,143分
監督:黒澤明
脚本:黒澤明、橋本忍、小国英雄
撮影:仲居朝一
音楽:早坂文雄
出演:志村喬、金子信雄、小田切みき、伊藤雄之助

多くを語る志村喬の「目」

志村喬の「目」、それは「生きる」ことへの渇望である。映画の冒頭の「生きているとはいえない」というナレーションが入るあたりでは、ミイラとあだ名される通りに彼の目はまったく生きていない。それが、「こういわれたら胃癌だ」という話の通りに医者に告げられ、自分の死期が間近に迫っていることを知り、自分の今までの人生の無意味さを悟り、「生きたい」という猛烈な渇望が生じたときに志村喬演じる渡辺はカッと目を見開くのだ。

彼の台詞はぼそぼそとしていてほとんど聞き取れないし、聞き取れる部分も「その…」とか「つまり…」とかいう言葉ばかりでほとんど意味がない。にもかかわらず彼がわれわれに多くを語りかけてくるのは、彼の目が、そして顔や背中が様々なことを語っているからである。

特にそれが強く感じられるのはその渡辺が役所を辞めた小田切みき演じる部下の女性と逢瀬を重ねる部分である。ここで渡辺は本当にまったくと言っていいほどしゃべらない。しかし、彼の目から生命感があふれ、彼自身もそれを感じている。そのことはこの逢瀬の最後の最後に渡辺が搾り出すように吐く彼の台詞に表れているわけだけれど、それを待つまでもなく、彼の目と表情でそれは読み取れてしまうのだ。

しかし、それに部下の女性が気づいていないというのもその表情や話し振りから読み取ることが出来る。小田切みきはこれがデビュー作ということだが、まったくそれを感じさせない見事な演技を披露する。彼女は果てしなく天真爛漫に、生きることに意味などまったく考えることなく、はつらつと生きる。そんな彼女に生きることへの渇望など理解できるはずもない。

その対照性の描き方が見事で、二人が最後に喫茶店で会うシーンなどはほとんど会話がないにもかかわらず様々なことが語られ、その表情のクロースアップの連続にはスピード感すら感じられるほどに展開力がある。

セリフのない名シーンと無駄な言葉(ネタバレ)

このシーンをはじめとして、この映画は表情で様々なことを語らせようとしているためにクロースアップが多かったり、クロースアップでなくとも人々の表情に注意が向くような演出をされているシーンが多い。したがってそこでも自ずと台詞は少なくなる。たとえば、渡辺が久しぶりに役所に出勤したシーンで3人の部下たちが互いに目配せをし、頷きあうというシーンも台詞は一言もないが彼らが言っていることははっきりとわかる。

このように台詞がほとんどないようなシーンがずっと連なり、映画は中盤を迎える。渡辺が公園を作ることを決意し、「やろうと思えば出来る」という言葉を吐いて「いよいよ始まるぞ」と思ったところで映画はいきなり葬式のシーンに。この唐突な展開には面食らうが、しかし、ここにも周到な狙いがあるのだと思う。

それは、ここでは列席者となった役所の人たちがやたらと喋り捲るという点だ。とにかくしゃべる。酒の勢いも借りて、いろいろなことを喋り捲る。そして、面白いと思うのは誰も人の話を聞いちゃいないということだ。誰もが先を争って話そうとし、人が話しているのを途中でさえぎって話し始める。彼らはいったい何を語っているのか。彼らは台詞なしで目配せで語り合っていた以上のことを語ってはない。彼らはただ言葉を発しているだけで、何も語らず、人の話は聞かず、自分の話すら聞いていない。

どうしたら「生きる」ことができるか(ネタバレ)

そんな彼らが最後には「渡辺さんの後に続け」などということをいうのだけれど、もちろんそんな言葉は空疎で意味がない。そもそも彼らを改心させるために公園を作ったのではない。彼はただただ自分の生きることへの渇望を癒すためだけに公園を作ったのだ。彼の念頭にあったのは自分自身と自分自身が作ったものを喜んでくれる人たちだけだ。小田切みき演じる女性の「課長さんも何か作ったら」という言葉につく動かされて作った一つの「もの」、それだけが彼を癒し、彼の生に意味を与える。役所の人々はそのことをまったく理解していない。彼らに見えているのは渡辺ががんじがらめの役所の機構を動かしたという結果だけであり、そんな渡辺の粘り強さに敬意を感じていはいるが、その先にある彼の意図にはまったく無関心なのだ。だから「後に続け」と言ってみたところで後に続いてやるべきことが見つからないわけで、翌日にはそんな決意はどこへやら、微かな罪悪感が残るだけで今までと同じように無関心に業務をこなし続けるというラストシーンへ続いて行くのだ。

しかし、黒澤は完全に絶望的な(あるいはシニカルな)結末にするのではなく、末席に座ったひとりの役人(日守新一)だけはその渡辺の意図を感じ取っている。何かの意味を捜し求めているのだ。しかし、彼が「生きる」ようになるのにもまだ時間がかかるだろう。

現代劇の「暗さ」に見える黒澤明の生き方

黒澤明というとやはりワクワクするような時代劇という印象が強いが、この作品のようないわゆるヒューマンドラマも面白い。『酔いどれ天使』『静かなる決闘』『生きものの記録』『赤ひげ』などがその列に入るだろう。黒澤のこれらヒューマンドラマの特徴はまず「暗い」ということである。この映画もそうだが、どうしても戦後を引きずった貧しい日本のつらい話を題材とすることが多く、そこには貧しさと同時に暗さが存在してしまう。時代劇の痛快さとは裏腹にじめじめしてあっさりとは行かないのだ。しかし、実はこのようなヒューマンドラマにこそ黒澤らしさが強く書き込まれているような気もする。

それはおそらく時代性ということだろう。時代劇も面白く、そこに現代性があることも確かだが、しかし時代劇は時代劇、現代に通じるようなテーマはあっても過去にベクトルが向いたノスタルジーという側面は無視できない。しかし、現代を舞台にしたヒューマンドラマはリアルタイムに時代性を表現し、見る人たちと直接的に結びつく。この映画を当時見た人たちは役所の職員たちの慇懃な態度、この映画で描かれているようなたらいまわしというものに憤っていただろうし、そんな彼らにかまっていられないほどに生活は厳しかった。

そんな彼らの気持ちを代弁するかのように黒澤は映画を作り、しかも一方的に職員たちを攻撃するのではなく、彼らも役所にやってくる一般の人々と同じように生きるために仕事をしているのだということも明らかにする。

そして、そのような同時代性をもった作品を作りたいと思うのが黒澤自身の生きることへの渇望なのではないか。この『生きる』という作品はいわゆる黒澤らしい作品とは別系統の作品ではあるが、そのような意味ではもっとも生の黒澤明が出た作品と言ってもいいのかもしれないと思った。

この映画の背後には世の中を見据える黒澤明の「目」がどっしりと存在し、スクリーンを見つめるわれわれを生きる渇望に満ちた目で見返しているのではないだろうか。

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