貧しさの中でも絆が人々を救う、黒澤明の異色作『どですかでん』

貧しさの中でも絆が人々を救う、黒澤明の異色作『どですかでん』

黒澤明が1970年に監督したヒューマンドラマ。黒澤映画の中ではマイナーな印象がある作品ですが、貧しさの中で生きる人々お絆を描き、現代にも通じるヒューマニズムを感じさせる作品です。

映画『どですかでん』の概要

ごみ溜めのような貧民窟でちっぽけな天ぷら屋をやる母親と二人暮しの六ちゃんは、毎日自分が電車の運転手になった気になって、「どですかでん、どですかでん」といいながら、家の前を往復する。近所の子供は彼を「電車バカ」と言って馬鹿にするが、彼のまわりには同じように貧しく、変わった人々が住んでいた。

『赤ひげ』の子役で黒澤に高く評価された頭師佳孝を主演にした、黒澤には珍しい作風のヒューマンドラマ。

1970年,日本,126分
監督:黒澤明
脚本:小国英雄、黒澤明、橋本忍
撮影:斎藤孝雄、福沢康道
音楽:武満徹
出演:頭師佳孝、菅井きん、三波伸介、橘侑子、伴淳三郎、丹下キヨ子、田中邦衛、井川比佐志、吉村実子

貧しさを描き続ける黒澤

これは“貧しさ”についての映画である。ごみ溜めのようなスラムで暮らす「電車バカ」の“ろく”と様々な人々、彼らに共通するのは貧しいということだ。黒澤明の映画にはこの“貧しさ”がたびたび登場する。戦後を描いた現代劇の多くは、貧しい人々、スラム街に住む人々が登場したし、『どん底』というまさに貧しさのどん底にある人々を描いた作品もあった。

この作品を観ながら、なぜ黒澤はそうやって“貧しさ”にこだわったのかと考える。もちろんひとつには、戦後という時代にはほとんど全ての日本人が貧しかったというのもある。戦後をリアルタイムに描くとき、貧しさは避けて通れない問題であった。人々はその日食べるもののために必死になり、生きて行くので精一杯だった。そしてそんな貧しい人々にも娯楽を提供したのが、当時の大衆娯楽の王様であった映画だった。もちろん、本当にどん底にいる人々は映画すら見ることが出来ないが、朝鮮特需を経て昭和も30年代に入ると、人々は週に一度映画館にいけるくらいにはなった。もちろんまだ貧しい生活ではあるが、明日食べるものに困るということはあまりなくなったはずだ。

しかし、その時代になっても黒澤は貧しさを描き続けた。高度成長期の日本を舞台にし、企業といういわば繁栄の象徴を取り上げ、その中でも金持ちを主人公にしても、しかしそこに貧しい人々をはめ込んで行ったのだ。『悪い奴ほどよく眠る』の中にもドヤ街が登場し、そこは貧しい人々で溢れかえっている。そのような貧しい人々を忘れないこと、それは黒澤にとってひとつのテーマであったのだろう。

そして、1970年、日本人はますます裕福になったこの時代に、『どん底』の現代版とも言えるこの『どですかでん』が撮られた。主人公というよりは狂言回しに近い「電車バカ」の“ろく”はちっぽけな天ぷらやをやっている母親と二人暮しでもちろん貧しいが、彼が暮らす貧民くつに住むほかの人々は彼に輪をかけて貧しいのだ。ひたすら内職をする娘と飲んだくれの父親、毎日酔っ払って帰ってくる土方のふたり、ひとり静かに細工物をする老人、毎朝死んだような目をして出かけてゆく死神のようにやせこけた男、そして気の狂った父親とふたりで廃車にすむ子供、彼らの生活はまさにどん底である。

貧しさと死と忘却

黒澤は、彼らの生活の中に何を見出そうとしたのか。ポイントになるのは、「死」である。貧しさにあえぐ彼らは常に「死」のそばにある。死神のような顔をした男(平さん)は死を連想させ、ジェリー藤尾演じる土方の男は日本刀を振り回し、しまいには老人(惣さん)のところに自殺志願の男が現れる。

この自殺志願の男は、「死にたい」といい、惣さんの差し出した毒薬を勢いよく飲み下す。しかし、惣さんとなぜ死にたいのかという話をしているうちに、夢に出て来る死んだ家族の話になり、惣さんに「あなたが死んだらその家族たちも死んでしまうんだ」といわれ、急に死ぬのが恐ろしくなる。

ここで「死者の記憶」という問題が浮上する。この作品で取り上げられている人々は貧しいがゆえに無名の人々である。死んでしまえば、身近のもの以外にはすっかり忘れられてしまう人々だ。しかし、それでもやはり彼らもこの世に自分の何かをとどめておきたいと思う。自分が生きていた証をこのように残しておきたい、自分のことを記憶していてくれるヒトに生きていて欲しいと思うのだ。その点はその人が貧しかろうと裕福であろうと変わらない。しかし彼らにはそれを成し遂げる手段がないのだ。貧しさの中で生き、貧しさの中で死に、そして忘れられてゆく。彼らの人生とはそのようなものでしかない。しかしだからこそ、そこから抜け出そうともがくのだ。内職ばかりさせられた挙句、義理の父親の子供を孕んでしまった勝子はただひとり自分に親切にしてくれた酒屋の御用聞(岡部)を刺してしまう。そして、その理由を「死のうと思ったが、岡部さんに忘れられてしまうのが怖かったから」と語るのだ。

貧しさの中の絆

それらの貧しさの中の悲惨とも言えるエピソードがわれわれに語りかけてくるのは、生きている間の人と人との絆の重要さである。顔に妙な病気を持った男と野人のような女の夫婦、たびたび夫婦の組み合わせが変わる2組の土方の夫婦、廃車に住む親子、彼らの間には傍から見ただけでは判らない何らかの絆が存在し、その絆が彼らに生きる意味を与えているのだ。だから彼らは貧しいながらも身を寄せ合って生きて行く。父親がみな違う子供たちを持つ父親は「まわりがどう思おうと、俺がお前たちの父ちゃんだ」といい、まわりと自分のどちらを信用するのかだと子供たちにいう。厳然たる事実としては子供たちは彼の子供ではない。しかし、主観的には彼らはみな彼の子供なのであり、彼と子供たちは固い絆で結ばれているのだ。

貧しい暮らしをしている人たちの間にはそのような固い絆が存在している。黒澤はそれを描きたかったのではないか。ノスタルジーではないが、世の中が便利になるにつれ人と人とのつながりは希薄になり、人々は逆に孤独になって行く、そのような現実に対してアンチとして存在する貧しい人々、黒澤はその対象を描くことで、何かを伝えたかった。ここでそれを“危惧”とか“メッセージ”とか書いてしまうと、黒澤の教条主義的な部分があまりにクロースアップされてしまうので書かないが、黒澤の作品にはいつもどこか説教臭いところがあるの。

そして、話は主人公と位置づけられている「六ちゃん」にいたる。そのような貧しい人々の絆というテーマの中で「六ちゃん」はそのように位置づけられているのか。おそらく自閉症か知的障害のこの「六ちゃん」が朝から晩まで電車のまねをして「どですかでん、どですかでん」と行って家の前を往復し続けるその彼の行動にはどのような意味が込められているのか。もちろんそこに六ちゃんと母親の絆は存在する。

映画を通してみると、 彼は狂言回しのような役回りを負う。 映画は六ちゃんの日課である電車の出発で始まり、六ちゃんが家に帰ってくるところで終わるが、この貧民窟の人々の物語が六ちゃんの運転する電車に運ばれてやってくるように見えるのだ。

人々に居場所を作る「六ちゃん」

これは、この作品に描かれたような日々が、六ちゃんの日課のように果てしなく繰り返されているということをまず意味するだろう。

彼は極貧のすさんだ生活の中に存在する唯一の無垢なものである。無知ゆえに自分の境遇の苦しさやつらさを知ることもない。ただただ毎日自分が信じるとおりに電車を運転し、充実した毎日を送るのだ。

だからと言って、彼が人々の救いであるかというと、決してそうではない。彼らは六ちゃんのことなどほとんど気にしていない。否定もしなければ、肯定もせず、ただそこにいるものとして受け入れている。

このコミュニティといえるかどうかもわからない貧民たちの集まりは、長老とも言える惣さんがいることで、何とかもっているといえるのだが、しかし実は六ちゃんがいることによってまとまりえてもいるのかもしれないとも思う。彼のような存在をも受け入れてしまう懐の深さ、それがなければ彼らのような苦しい暮らしをしている人々がまがりなりにもまとまることは出来ない。会話がほとんど陰口だとしても、彼らはそこに居場所を見出し、何とか安住しているのだ。

他人との関係は相手を否定することによって崩れて行くわけだが、どうにも否定しようのない六ちゃんの存在がいるこの場所では、人々の関係が本当に崩れることはありえない。本当に近しい何人かと強い絆を結び、その周囲の人々と希薄ながらもつながって居場所を作る。そのようにして何とか生きている貧しい人々、それは黒澤にとって余計なものをそぎ落としたいわば「人間のモデル」なのではないか。貧しい人々を見せることによって黒澤はわれわれの単純化された内面を見せようとしているのではないか。

『どですかでん』が見られるVODは

黒澤作品としてはそれほどメジャーではないですが、見ごたえのあるこの作品を見られるVODを紹介します(2020年1月現在)。

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